<幻の戦闘機「震電」>「逆らえず」博多織工場で部品製造(毎日新聞) - Yahoo!ニュース


<幻の戦闘機「震電」>「逆らえず」博多織工場で部品製造

毎日新聞 8月3日(月)9時45分配信

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 ◇伝統工芸の職人も「兵器」製造に動員



 旧日本海軍が開発し、終戦直前に完成した幻の戦闘機「震電(しんでん)」の部品が、福岡市の博多織の工場で作られていた。徴兵で不足した技術者や、空爆を受けた軍需工場の穴を埋めるためだが、伝統工芸の職人も兵器製造に動員させられていたことはあまり知られていない。震電は実戦に投入されることなく終戦を迎え、関係者は悔しかったというが、今は自負心と安堵(あんど)という複雑な思いを交錯させている。



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 震電の開発計画は1942年に始まった。高空から本土を空爆し始めた米爆撃機の迎撃が目的だった。短時間で急上昇できるようにするため、主翼と水平尾翼の位置を逆にし、プロペラを機体後部に設置したのが特徴だ。



 製作は現在の福岡市博多区にあった軍事航空機メーカー「九州飛行機」が担ったが、同社工場が空爆の被害に遭い、各地の学校や地下施設が工場に使われた。周辺にある他の業種の工場も協力を求められた。その一つが、明治末からの歴史がある博多織の「後藤織工場」(現・博多輸出絹織(きぬおり)、福岡市南区)だった。



 当時の社長、後藤長兵衛さん(99)や10年前に書かれた自叙伝などによると、44年4月、後藤さんは県の商工課長から突然、航空機部品の製造を命令された。「博多織から軍需産業に転業とは、いくらなんでも、と驚いた」と回顧する。



 だが「当時の情勢では逆らうことはできず」、木材加工すら経験がない職人たちは、知り合いの「風呂桶(おけ)職人」らを招き、四苦八苦しながら材木を削ったり曲げたりした。震電の水平尾翼や哨戒機の胴体などを製作した。



 震電は2機が完成し、45年8月3日、福岡で試験飛行された。地元郷土史家の岡部定一郎さん(84)は、このころ低空を飛ぶ戦闘機を目撃している。「キュウリのような戦闘機がシュッと一瞬で見えなくなった。速さに驚いた」。最近、写真を見て震電だったと気付いたという。しかし、終戦によって実戦で飛ぶことはなかった。



 後藤さんは戦後、博多織の振興に努める一方、戦闘機の製作については多くを語らなかった。ただ、後を継いだ長男(63)は、後藤さんから「お国のためにやっていた。三日三晩作業しても疲れなかった。飛ばずに悔しかった」という話を聞いている。



 半面、複雑な思いもあったようだ。後藤さんは長崎原爆の翌日、長崎市を訪れ被爆している。軍需工場を引き受けた以上、自分の工場の職人たちも空爆の脅威にさらされる恐れがあると思い、新型爆弾の威力を確かめるためだった。「死体があちこちにあり、ひどかった」。長崎の惨状を前に、戦闘機製造の自負心とは逆に「戦争はしてはいけない」との思いにも駆られた。



 後藤さんは今、「決して愉快な思い出ではない」と振り返る。一方、長男は父がかつて言ったことを覚えている。「戦闘機が飛ばなくて良かった。人を傷つけていたかもしれない」【尾垣和幸】



 九州の軍事施設に詳しい大刀洗平和記念館顧問の北原勲さんの話 戦争末期は戦況の悪化で、各地で航空機の製造が他業種の工場に分散されていった。ただ一般には鉄や木材を扱うのに慣れた業種が多く、博多織の工場でも作らされていたのは驚きだ。強制された人々は「日本の勝利のため」という気持ちで協力したのだろう。

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